「学」
2007年

1月
私が通ってる教室での唯一の楽しみといえば、5月の講習会だ。
年明け早々、5月の講習が今から待ち遠しいです。
1月8日には初稽古があり、今期もまた扇の練習をしています。
練習終わりに誰やら背後から声をかけてきた。
「・・・おめでた?」
ビクッ!
トウ先生だった。
「違いますようっ!」
「ほんと?お腹出てるから、てっきりそうかと思ってフジ先生と話してたのよ!」
「ただの肉ですよ・・・(涙)」
正月太り、ってことで片付けて欲しいものだ。
それにしても、腹が出てしまうくらい、しかもそれがオメデタに見えてしまうほど、
練習怠けてるのがバレバレです、私。
そう、覚えたての、まだ途中までのホンの少しの(老八掌のうち4掌まで)八卦套路を
忘れてしまうほど練習してません。あまりに分からなくて挫折してしまったというか・・・。
学ぶ量より、忘れ去る量の方がはるかに上回ってます、私。

・・・あ〜、今年もこんな調子で何が学べるっていうのだろうか?



2月
昨年秋に催された日中友好の太極拳の祭典がDVDで売り出されている。
中国から招かれた老師の表演の中に、私が敬愛してやまないL老師の名前を発見。迷わず購入して拝見。
・・・その安定感「ステキ〜♪」
・・・そのさりげない動き「ステキ〜♪」
DVDのL老師は、さらに動きに磨きがかかっていた。
「日頃どんな食事をしているのだろう?」
「毎日(?)どのような練習をしているのだろう?」
「どうしたらL老師のようになれるのだろう?」
疑問は膨らむばかり。
「L老師になりたいっ!」

そんなことばかり考えていたからか、私はまたも毎晩のようにL老師の夢ばかりみるようになった・・・。
夢の中に登場するL老師は私にとても優しかった。(実際にはありえないことです)
電話をすれば「もちろん、講習会には僕が行くよ!決まってるじゃないか」と答えてくれ(実際は来ないことになった)
「孫式を習いに行ってもよろしいですか?」と尋ねれば「もちろん!、いつでもおいで。教えてあげるよ」
二つ返事で引き受けてくれ(実際は年賀状に書いて尋ねても返事すらこなかった)
また別の日の夢では私だけを北京を案内してくれたL老師。北京デートの夢だ。
京劇の巨大隈取のお面を欲しがる私に、そのお面をわざわざ買ってきてくれたりもしてくれる・・・
は〜、幸せだ〜。むにゃむにゃ・・・

しかし現実には5月の講習会にも来れないことが決定。
そして翌日の夢はL老師ではなく、なぜかイチロー選手が登場していたのでした・・・。



3月
3月12日、20日分の「tuzi now」にチラッと書いた太極拳教室を開く予定の件。
当初、構想だけで具体的なところは何も決まらずじまい。
とにかく「太極拳を習ってみたい」という人が集まらないことには始まらないわけで。
そのための宣伝として例えば、町の福祉課の主催で健康のための太極拳教室を開催してもらう、とか・・・
はたまた健康促進の課で公民館を会場に広報で募集してもらう、とか・・・
だけど、どこにどう働きかけてよいものやら皆目検討も付かず・・・
手探り、暗中模索の日々。
太極拳という年齢問わず始められる、これ以上健康によいものを利用しない手はないと思うんだけどなあ。
こちらとしてもそういった公共の機関で募集してくれればそれに越したことはないし、
教室を運営するにしても理想的な入り方なんだけど、感触としてはどこでも「お呼びでない」みたい。
だってさ、公民館にアピールしに行ったら「予算がない」って門前払いされたし、
仲間がいれば‘部屋貸し’だけはしますよ、って、まるで大家気取り。
あと、NPO団体に働きかけたら、反応はよかったんだけどその後連絡は一切なし・・・。

こうなったら自力でどうにかするしかないのだ、と腹をくくって地道な宣伝活動を開始。
『太極拳教えます』のチラシ(A4版・・・小さっ!)を作って自宅玄関はじめ、近くの図書館や、公民館、
屋外の掲示板、バス停、かかりつけの病院の薬局に「貼らせ下さ〜い」作戦。
だけど、チラシ‘バラマキ作戦’じゃ地味すぎて宣伝になりそうもない・・・
病院の薬局といってもお年寄りばかりが薬をもらいに来るような場所がら。
お年寄りは「ボーッ・・・」と一点を見つめ薬が出来上がるのを待つのみ。
たかがA4版のちっこいチラシなど目に入るわけもなく・・・
そのチラシだって、「文字が小さすぎる」かな、とか「文字ばっかじゃ目に付かない」かな、とか・・・
改良に頭を悩ませて作り変えたり。これはこれで結構骨の折れる作業。
近所のバス停留所の掲示板(屋外)は1日2往復の廃線寸前の超ローカル路線、空バスが走ってるだけ・・・。
案の定、問い合わせの電話は一本もこない。
ある程度問い合わせがあれば、その方たちの近くにでも会場を借りようと考えているのだが。
‘太極拳教室生徒募集’のチラシなのに、実は教室はまだない・・・「これってどうなのよ?」状態。
そんなこんなで4月開講の進展はないまま。問い合わせ電話もないまま3月もおわってしまった・・・
会場確保が先か、生徒募集が先か・・・
会場を押さえるのは簡単だと思うんだけど、会場を押さえて募集をかけても生徒が集まらなければ
どうにもならないわけで・・・そうなったら会場費は自腹。
私ひとりだけがだだっ広い会場で自主トレして帰ってくるだけ、ってことに。
地域の健康促進に貢献する気は満々でも、教室開くってこんなに大変なのね。
この一件、やぶ蛇で終わらなけりゃいいけど。



4月
「会場確保」の巻
チラシ‘バラマキ作戦’失敗か、とそんなチラシのことすら忘れかけていた4月4日。
朝、一本の電話がなった。
「・・・太極拳の教室のことでお電話しました。場所はどちらですか?」
ガビーン。
場所確保してないんだよねー。教室がないのよねー。だって、人数集まってないのに借りててもさあ。
「場所の確保なんて楽勝楽勝♪」と踏んでいたので、「場所を決めて連絡します」と電話を切った。
このご婦人、ご夫婦でいらっしゃるとのこと。
さてと、早急に手配せねば!

・・・と、またも電話が。これで3人目。
私を入れても4人だから、それほど広いスペースは必要ないだろう。
図書館の一角などはどうだろう?同じ敷地内にある児童館もいいかも・・・
さっそく当たってみることにした。
児童館に行くと玄関先で職員の人に出くわした。
事情を説明すると、ここの地区の人たちの会合などには貸すみたいだが、
他所の一般の人には貸してないようだとのこと。
とにかく館長が留守とのことで、聞いてみて電話をくれるということだった。
が結局、一般の人には貸さないという返事だった。

次に図書館へ。
受付で「展示スペースを借りたいのですが」と話したところ事務の女に引き継がれた。
事情を話すと、有料とのこと。1回4時間まで1,575円。
まさか図書館が有料だなんて思いもしなかった。狭いスペースだけにかなりお値段高い。
公民館も含め公共機関はどこも一律料金のようだ。
月4回借りたとしたら6,300円になっちゃうじゃないか・・・。
幸い図書館には館長が在室しており、話すことができた。
館長は話しの分かる人で、「2階の創作ルームなんかどうかなあ」と親身になって考えてくれた。
でも、図書館で太極拳というミスマッチが気にかかるようで、
少し遠くなるが、車で20分ほどの場所にあるコミュニティセンターを薦めてくれた。
「あそこなら部屋もたくさんあるし、町民が利用するのは‘タダ’だから」と。
翌日、私は図書館長の言う‘タダみたいなもん’という言葉につられ車を飛ばした。
遠いけど‘タダ’には代えられない・・・
かなり老朽化が進んだコミュニティセンターだった。館長が対応してくれた。

いよいよ明日(10日)から教室第1回が始まります。
来月からの場所の確保や、手首の痛みやらで運営に関しては暗くなるばかり。
ですが、太極拳に興味を抱いた生徒さんと対面するのは今から楽しみです♪
私もプリントを作成したり、どんなふうに套路の説明をしようかと今からワクワクしてます。
コミュニティセンターの館長曰く、
「太極拳て1回や2回で覚えられるものじゃないでしょ?
そういう長期のものって、この辺じゃ続かないんですよね」だって。
ガビーン、それじゃダメじゃん!(←「笑点」の春風亭昇太で)



「教室開講」の巻
4月は生徒さん優先で考え、その生徒さんが住む地域に会場を確保した。
私のところからは15分ほど車で通わねばならない。遠いっ!
最初に電話をくれたKさん(女性)は、ご主人とふたりで来ると言っていたから、
その後に電話をくれたYさんとで3人の予定だ。
開講の前日、Kさんから再度電話がきた。
「あの明日の教室なんですが・・・」
「(え・・・来れなくなったのかな)」と一抹の不安がよぎったが「・・・人数が増えてもかまいませんか?」と。
「(ほっ・・いいもわるいも会場スカスカですから!)大丈夫です。大歓迎です!」
「うちの娘と、おばあちゃんも行ってみたいと言いますもので」とのこと。
一家総出かいっ!?
Kさんに月謝のことは話してあったのだが、そんな4人分ももったいないような気がする。
ひとり習って家に帰って教えれば済むような気がするんだけど・・・
月謝の家族割りなんて考えてないしなぁ・・・
そして翌日、Kさんをリーダーに家族4人はヤル気満々でやってきた。
太極拳の動機をうかがったところ、
図書館で説明つきの太極拳のビデオを借りて覚えようとしたのだけれど出来なかったから、とのこと。
‘ビデオを借りる’という時点で太極拳に興味がおありのようだ。
Yさん(男性)は刺し子の本格カンフーシューズをお持ちになっていた。まだ新しく、下ろしたて。
太極拳の経験がおありなのかと思ったら「テレビで公園の風景を見たくらい」とのこと。
もうひとり、娘さんのお友だちもいらっしゃって最終的に6人になった。
さっそく24式套路を始めた。
第一回目は‘起勢’と‘野馬分鬣’まで進んで練習を終えた。

翌週の2回目。
「(みんな来るかしら・・・)と私は不安でたまらなかったが、皆さん集まってくれた。
「先週の翌日はどうでしたか?」と体調をうかがったところ、
先週は「私でもついていけるかしら?」と不安そうに語ったおばあちゃんが、
「腰痛かったんですけどね治ったんですよ♪」と。
スゲー!
Kさんも「それまで足がだるかったんですけど、翌日スッキリしちゃって♪」なんて言ってる。
スゲー!スゲー!
私は、ひとり太極拳効果に感動しながら、前回の復習に入った。
あれ?
みんな飛躍的に上手くなってきている。
家で特訓してきたのだろうか?また図書館からビデオを借りたとか?
聞けば一家4人で練習してきたと言うではないか。
やっぱり・・・

それにしても私の頭の中はヤル気満々の一家4人を路頭に迷わすことのないよう、
5月の会場確保のことで頭がいっぱいである。
毎月の会場さえ定着してしまえば、生徒募集の宣伝もできるんだけど・・・
それで生徒さんの利便がよくて、広さも十分にあって、会場費が格安で・・・そんなのどっかにないかなぁ。
・・・会場確保の悩みは当分続きそうです。



「依頼打診」の巻
四六時中、私の頭の中は5月の会場のことでいっぱいだ・・・(頭痛)
第一回目の教室が開講するというその日の午後、一本の電話が鳴った。
「××公民館ですが、太極拳のことでお尋ねしたく電話しました」
××公民館?(プチッ!)
そこは以前「予算がない」って門前払いされた所だ。
今になって何用か(怒!)、と思って黙って聞いてたら、
今年の講座で月に一度くらいの単発で教えられないか?とのこと。
それ以前に「一度や二度では覚えられるものではありませんよね?」と。
そりゃそうだとも!
でもさ、太極拳がマスターできるものではないけれども、一回限りのメニューを作ることはできる。
そこに集まった人の中に太極拳に興味を持って継続したいと思ってくれた人は、教室に来てくれればいいわけだし。
「子供でもいいですか?親子学級のような形でお母さんと一緒の子供たちは可能でしょうか?」とも。
「ああ、それならそれなりのメニュー考えます。見よう見まねでついてきてくれればいいですし・・・」
「それであの、もしお願いするとなった時の謝礼はおいくらほど・・・」
「そうですねぇ、ところで対象人数は何人くらいですか?」
「20人くらいです」
これを機会に公民館で会場確保ができれば大助かりなんだけどな・・・

でも、そんなどうなるか知れたものでもない先のことより、さしあたって5月の会場を確保せねば。
それと、既に日程表が届いてる全国大会の自主トレも始めねば・・・。



「再び会場確保」の巻
5月の会場確保することで頭がいっぱいの日々を送っていたが、悩んでいても仕方がない。
当たって砕けるしかない。
『教室となればいくばくかの謝礼はあって当然です。
だからといってその謝礼が‘営利’とみなすかは、その額にもよります。
だったらいくらから‘営利’とみなすかの線引きは実は難しいのです』
そもそも公民館のありかたは地区の人たちが集い文化に触れたり、
スポーツを通じて健康維持、また親睦を深めることにある。
そのためにも新しい分野の開拓は必要だろう。レベルアップの為にはそれなりの指導者も必要だ。
その際、場所の提供として公民館があってしかるべきなのだ。
『館長も度を越えた、あくまで営利だけを目的とした、という意味での言葉であったのでは・・・』
と、事務の男性は語った。

それにしても、同じ公民館でも使用料設定しているところもあれば、かたやあくまで無料という所もある。
これまで5,6ヶ所ほどまわって話しを伺ってると、‘営利’の捉え方にも大きな開きがあった。
謝礼を受け取ったらその額に関わらず営利とみなす公民館もあれば、
営利でなくとも、とにかく使用料を納めなければならない集会所もある。
そういった所は営利でもとにかく使用料さえ支払えば貸してくれるようだ。
営利であれば使用料が発生し、‘サークル活動’なら無料というところもある。
千差万別で統一性が見えてこない。わからん・・・どうして同じ公共の機関なのに考え方が違うのだろう?
一番すんなりいくのは、やっぱり生徒さんが‘サークル活動’として場所を確保する形なんですよね。
でも、その‘サークル活動’というのが、‘隠れ蓑’なのだ。
「サークル活動です!」なんて、ただ法の網の目をかいくぐって実は大金が動いてたりする。
・・・でもま、とりあえず5月の会場は確保した♪
これで一安心♪
でも、5月の会場は私の家からは近くなったけど、逆に生徒さんの家からは遠くなっちゃったのよね・・・



5月
教室に継続して来ている生徒さんは4人となった。
結局、おばあちゃんは遠くなったことから通わないことになってしまったし。
このままでは立ち行かないので、ここらでもういっちょ宣伝にでなければなるまい。
そんなわけで、5月は練習日が5回あるので、最終週に「無料体験教室」を開くことにした。

では毎年恒例の5月講習会の報告を。



一日目
結局、私の手首の痛みは完治せぬまま講習会に参加することになった。
今年は初めていらっしゃるR老師に42式を習おうと考えている。
昨年までいらしてたF老師は中国に帰国され、さる名門大学の教授職についたとのこと。
今年初お目見えのR老師であるが、実は南拳と陳式の表演を、私は録画で見たことがある。
敬愛してやまないL老師と同じ雲南省出身であり、後輩でもある老師だ。どのような42式となるか楽しみである。

R老師のなかなか興味深い準備体操。みっちり一時間。
その後、各種目に分かれて講習が始まった。
R老師は太極拳の基本姿勢や動作の説明(日本語が流暢)で、私たちを座らせてばかりいて、
動いたのは套路二回分くらい。
私、ぜんぜん汗かきませんでした。サラッとしたものです♪
物足りなさを感じながら一日目帰途につく・・・

二日目
Tシャツもそのまま二日目。
顔なじみのmさんが、「tuziちゃん、どうして京劇Tシャツ(←かなり恥ずかしい一品)着てこなかったの?」と言うので
「だって昨日、ぜんっぜんっ汗かかなかったんだもん!えっへっへ・・・」と楽勝をアピール!
と、そこへR老師が。
mさん「せんせー、せんせー、この人昨日ぜんぜん汗かかなかったんだってー!」
私も密かに「(今日こそはしごいてもらわないと!)」と思っていたので、R老師のリアクションが見たかったんだけど
日本語のニュアンスが伝わらなかったのか、キョトンとされて行ってしまった・・・。

私たちのグループは人数が多いので4つの班に分けて、交互に動いた。
‘見られる’というのは緊張するもんだ。
しかも間が悪く、まん前に首都圏から参加したKさん夫妻が陣取っている!
Kさん夫妻は、こんな田舎町で太極拳してるワテラと違って、お手本のような動きで皆を圧倒し、
足腰の安定感抜群!まさに‘安定感の鬼’のような動きを披露されていた。
その夫妻を前に動いて見せるのは、R老師に見られるよりある意味緊張するわけでして・・・
それにKさん夫妻は首都圏でL老師にも毎週習っていたことがあるのです。
こういった方と年に一度でもご一緒できるというのは、私としては良い刺激になるものです。
教室の‘ゆる〜い’中で練習してますと、自分の動きもやはり‘ゆる〜く’伝染してるものなんです。
向上しなくなる。向上してないことにも気がつかなくなる・・・こうなったら最悪ですって!
そんな私を引き戻してくれる存在としても年に一度お会いするK夫妻は大切な存在なのです。
緊張しながら動くこと套路一回分。やっぱり物足りないです。
そりゃ、R老師のお話しは大変勉強になりましたよ。
特に「含胸抜背」のお話しでは、自分が意味を違えていたことも判明。
さらに、上体がまっすぐかどうかの基準などにも唸らされた。
こういうことをサラッと言いのけるあたりが、さすがに中国人老師ならではだ。
私たちは座ってR老師のこうした話しを聞く時間が長すぎて、今日も動く時間がほとんどなかった。
正味30分くらいか。やっぱ物足りない〜

楽しみにしていた講習会も今年は「物足りなさ」を残し終わってしまった。
ところがほとんど動いていないはずなのに、手首がもとに戻ってしまった。
‘もとに’というのは痛みが激しく悪化してしまったということなのです・・・(泣)
太極拳って思いのほか手首や足首を酷使するものなんですね。
これから7月の全国大会に向けての練習を本格化しなきゃなんないのに、この手首じゃ練習にならない。
これじゃ大会までの完治もムリ・・・(痛)



「無料体験教室」の巻
地域新聞の募集欄に「無料体験教室」の告知を載せた。
「事前に申し込むこと」とし、電話をもらうことにした。
場所が分かりずらいと思ったので連絡をくれた人に説明したいし、上履き持参の連絡もしたかった。
それに教室の詳しいことを書いた配布物の準備もある・・・
教室の生徒さんには「人数が多かったらお休みになるかもしれません♪」とまで話し、
「ふっふっふっ・・・電話がひっきりなしに鳴っちゃったらどーしよー♪」「家を空けられないな・・・♪」
「10人になったら締め切ろうっと♪」などと、いらぬ心配ばかりしていたのでした。
そして5月2626日、募集告知が新聞に載った。
昼過ぎ、一本の電話が鳴り、夕方もう一本・・・。
そして終わった・・・(爆)
何が10人になったら締め切ろうだっ!
何がお休みになるかもしれませんだっ!
今回の無料体験参加者はたった2人・・・(悲)

5月30日、体験教室当日。
Gさん(男性)は以前に武連の教室で太極拳をしていたそうだ。
Tさん(男性)は小学1年生くらいのお嬢さんといらした。
拳法や格闘技が好きみたいで、今までいろいろ体験してきたような感じだが太極拳は初めてみたい。
お嬢さんも誘ったが、まったく興味がないらしくトランポリンで遊んでいた。
そしてもうひとりSさん(女性)も参加してくださった。
Sさんは体験教室とは関係なく前に電話をくれていた人で、8月以降でないと始められないと言っていた女性。
いつものように準備体操から始め、私の24式デモンストレーション。
弓歩と虚歩の説明をした後に、24式を一緒に体験。
1時間なのであっという間に終わっちゃった。
時間がある人は残って体験して欲しいと言ったような言わなかったような・・・
Tさんと、時間がないと言うSさんは帰ってしまった。
Gさんは私の24式を見てひとり拍手をくださり、最後まで残って教室の生徒さんと一緒に練習を楽しんだ。
おまけにモップを持って掃除までしてくれた。Gさんだけは来月から通ってくれるかな・・・
それにしても疲れた〜
3時間動きっぱなし、話しっぱなし。
おまけにひとりの生徒さんが遅刻して整理体操してる時来ちゃって、ご丁寧に時間外練習までしちゃったし。

「教える」ことは自分の勉強にもなる、と指導にあたってる人がよく言ってるのを耳にするけど私の場合、
いろんな意味で消耗するだけなのです。
だからこそ自分の蓄積したものを減らさないように維持するだけの練習を積んでいかなければならない。
私の場合「教える」ことは決して自分の蓄積にはならないし、自分の練習にもならないのです。
自分に向き合って初めて自分の練習になっていくし、蓄積にもなる。
私にとって「教える」ことと「学ぶ」ことはまったくの別物なのです。
・・・って考えてみれば、自分がすり減るだけの教室を開いた私がバカでした・・・ってことか?



6月
翌週、Gさんだけは来月から通ってくれるかな・・・と踏んでいたが結局現れず、予想もしなかったSさんがいらした。
これまでも太極拳には興味がおありのように見受けられたし、取り組む姿勢が前向きだ。
その翌週は、3人のなかで一番冷めて見えたTさんも顔をみせた。
思いもかけない出現に驚きもしたが喜びもひとしお・・・。
それに、5月お休みしたAさん(女性)もいらして、4人から7人に。
グループをふたつに分けることになったので、生徒さんには時間的に制約ができてしまって申し訳ないが、
これがふつうと言えばふつうの教室である。
これまでがマンツーマン指導だったわけでして・・・
今はとにかく体を壊さない‘正しい動作’を身につけて欲しい。太極拳の習得には段階があります。
生徒さんたちにも長く続けてもらって、深めて欲しいと思っている。
今はただ、‘楽しい’と感じてもらえるような教室にしたいと考えている。
思えば‘楽しい太極拳’は私にとって長年のテーマだ。
これまでの私は太極拳が‘大好き’だけど‘楽しい’ではなかった。
今でも太極拳をしていて‘楽しい’という感覚は生まれてこない気がする。
(講習会で中国人先生に習ってる時は‘楽しい’が、それは‘習う’楽しさであって・・・)
私も太極拳を始めた当初はそうではなかった。
「楽しくて楽しくて、早く一週間が過ぎて欲しい、教室に行って習いたい♪」
そう思っていた。でもその楽しさがなりを潜めてしまった。
だから私は、生徒さんたちに教室に来ることを楽しみと感じてもらい、太極拳を楽しんでくれたなら嬉しいし、
私としても教室を開いた甲斐があるというものだ。
そのためにも私は「套路を覚えなきゃ」とか、「がんばって」なんて生徒さんが思わないでも済むような
教え方をしたいと考えている。
教室開講から早3ヶ月。
一時は閉鎖の危機かと思うこともあったし、これからも会場確保の悩みは尽きないだろう。
生徒さんが週に一度、太極拳でいい汗流して楽しい時間を過ごしてくれれば、
私にとってこんなに嬉しいことはないのです。



7月
教室を開いて3ヶ月。これまで生徒さんを前に24式を表演することが何度かあった。
人前で、しかもこれから太極拳を始めようか、と考えてる人を前にすると、
少しでも‘よく’見せようと‘いやらしい’気持ちが働いてしまうものだ。
私はその度に、そんな自分にガッカリし自己嫌悪に陥ってきた。指導する立場になって感じた試練。

運営にあたっては相変わらず人数が集まらない。
私はこのまま地道に「来るもの拒まず、去る者追わず」で続けていこうと考えている。
思えば、無理に教室を大きくしよう、とか、大々的に宣伝をして人集めをしよう、とは考えていなかった。
小さなチラシが目にとまり興味ある人が集まってくれればそれでいいくらいに考えていたのだ。
それにしても、もう少し集まると思っていたが・・・。
また、いつか無料講習会でも開いて遊びにきた人が面白がって始めてくれたらそれもいいし。
ま、思いの外集まらないもんだ、ということで・・・
人間、興味のないことに関してはどんなに大きな看板でも‘目に入らない’ものですからね。
それにしても「来るもの拒まず、去る者追わず」はどっかで聞いたフレーズだ。
私が通ってる団体の代表W代表の口癖なのだ。
皮肉なものよ・・・教室運営では考えが一致するなんて・・・
といっても、私の教室とは比べものにならないほど規模が違いすぎますが。



先日、中国人女性武術家のブログを読んだ。
幼い頃から実践的な武術を修練し、現在は日本に住んで教室を開いている。
今も年に数回中国に帰り、武術修業を積んでおられる若い女性だ。
中国で生まれ育った彼女の、中国における太極拳の状況や練習風景は読んでいて大変興味深く面白かった。
と同時に私自身、身につまされる思いでもあった・・・
少し紹介しよう・・・

「企業文化」
朝8時、温県に到着した時に、たくさんの若い女の子が太極拳の服を着て太極拳を発表していました。
町の人に聞いたら、皆さんはこのスーパーの店員です。
毎朝8時、皆さんは表演服で2回24式太極拳をして整列、スーパーの中に戻って着替えをしてから
営業が始まるそうです。凄い企業文化だと思って感心しました。
また、陜西のある企業の社長は3000人の社員全員太極拳ができるように陳先生に指導を頼みました。
陳先生の会社から8人の太極拳指導員を陜西に派遣しました。
この8人の指導員は毎日朝と晩、3000人の社員に陳式太極拳教えます。期間は1年です。
凄い企業文化だと思うと同時に、社長達は頭いいなあと思います。
ほら!3000人の医療費より、8人指導員1年の給料のほうが全然安いです。
もちろん、お金のことだけではなくて、生活も豊かになりますし、太極拳をやると心身健康だし、
仕事もやる気満々になりますよ。第一、企業の形象と知名度を高めます。

ウチの町の社会保険福祉課、スポーツ振興課、生涯教育課の役人に聞かせてやりたいっ。

「違うのは」
武術の練習は子供からずっとやってる修練ですが、今回の練習場所は中国の田舎です。
人口830万人の武漢市で暮らす私は、中国の田舎や、農民の事を知りませんでした。
毎日忽雷架を練習して、この一週間の習うのは人生大事な経験になりました。

一、寒さ
零下5℃〜零下10℃って、一度も体験したことがないです。
そして、暖房やストーブや暖かくなる電子製品も一切なしです。部屋の温度と外は全く同じです。
寝るときに、電気毛布がないから、上に3つ厚い布団をかけます。
寝てから目が覚めるまで、体の周りは冷蔵庫みたいで、何所でも寒いじゃなくて、氷のように冷たいです。
体は縮こまって身震(みぶる)いで、頭も痛くて風邪を引きそうです。
寒くて寒くて死にそうでした。いいえ、本当に明日になると寒くて死ぬことを確信していました。
もし明日死んでなかったら、止めて帰ろうと思いました。
(でも、翌日は死んでなかったです。翌日の朝、皆が一緒に走りに行くのに強引に連れて行かれました)
二、食習慣
最初の二日間は1食で1つ肉料理が出てきました。三日目から全然見えませんでした。
私は毎日「肉を食べたい!今日も肉がないですか?午後は肉がありませんか?」とうるさかったです。
でも、待っても、待っても肉が出ませんでした。田舎で、鶏、鴨、羊、牛、犬がよく見えますが、食べれません。
肉がない生活は元気が出ませんでした。自分で買いに行けばと考えて村から出て買いに行きました。
しかし、何所に行っても売ってませんでした。
聞いたら解りました。この辺は売り場やスーパーや市場がありません。
香港の団体を招待ために、わざわざ遠いところからたくさん肉を買って帰ったのですが、
この前もう全部食べてしまいましたから、もうありません。
そして、田舎は年1回しか肉を食べません。新年時です。
あとは結婚披露宴などに参加したら、肉を食べることができます。
よく考えるとミルク、ヨーグルト、パン、ケッキ、チョコなど普段毎日食べてるお菓子は見たことがないです。
果物も、魚でも一度も見たことがありません。
三、練習量
そんなところで暮らしたら本当に「功夫」がある人になると思います。
どうしてかというと、練習の時間がいっぱい持てるから。寝ると食事以外、全部練習時間です。
他にする事がないし、行ける場所もないです。練習しないとすることがありません。
そして、練習しないと寒くなりますし。いつも寒くなったら練習が始まります。
だから、計算すると1日は10時間以上練習していました。
都市で生活している人々はテレビ、パソコン、映画、デート、買い物、仕事、パチンコなどすることが多いから、
なかなかそんなに練習できないでしょう。
そして、周りに「高手」が多いし、先生、先生の奥さん、先生のお嬢さん達、家族の皆は
全員太極拳ができる人だから、順番に見てもらえるし、いろいろ動きを見ても勉強になります。

凄い環境だなあ・・・
寒いから太極拳、太極拳以外することがないなんて。
一度行ってみたい気もするけど、電気毛布のない零下なんて私にはとても耐えられそうにない・・・。



「武徳」とは?「武術三規」とは?「拝師」とは?

「太極拳とは何ですか?」
今日は家に叔父さんの同僚が来ました。
私のいる部屋から2つ部屋をはさんだ部屋で、二人のお婆さんのやかましい声がはっきり聞こえました。
しばらくして、叔父さんがやって来て「あの二人はあなたの師姐ですよ、来て話して」と言いました。
私はその部屋に行きました。確かに、知ってる人で、陳湘陵先生の弟子でした。
彼女らはヒマワリの種を食べながら、話してくれました。
「あなたは今何ができますか」
「伝統拳を習っています」
「何の伝統拳ですか」
「太極棍と陳式老架を習っています。師姐は何をやっていますか」
「私は**で教えていますよ」
「あ!先生ですか。何を指導していますか」
「24、42、48、32剣、42剣、陳、楊、呉、孫、和式など。あなたは?」
「あ!スゴイですね!私はこれらを練習してないです。」
「お!日本に戻る前に、私の教室に来て、指導してあげるからね」
「はい、ご都合いい時に、伺います。」・・・
晩御飯後、叔父さんはある師姐の事を言いました。20年も毎日朝太極拳をやっていてスゴイ人だと話しました。
「日本に戻る前に師姐の教室へ言った方がいいよ」と叔父さん。
「行かないよ」と私は言いました。
「どうして、いいチャンスだよ」
「彼女らは太極拳の人ではない、他人に対する尊重心がない、自慢をするだけの人で武術の武徳がないし。
場所を重視しない、武規が言えなくても、常識がある人でも、他人の家で大きな声で話す人は駄目です。
誰にでも“指導してあげよう”武風ですか?陳湘陵先生は“武術三規”が大事な方で、弟子に教訓していました。
これらができないと武術をやってる人ではない。そして、彼女らのものは太極拳ではなく、体操です。」
「これはあなたの間違いですよ。彼女はたくさんの套路ができますよ」
「彼女の体格ね、お腹が大きい、太ももは私の二の腕同じ、これは太極拳をやってる体格ではないよ。
太極拳じゃないと100の套路ができでも無駄です。太極拳は武術です。“功夫”です」
「何が功夫?」叔父さんは皮肉を言いました。
それで、私は説明の為に弓歩や馬歩で叔父さんに推してもらいました。
叔父さんは私を推せなくて、座っても、立っても、動かすことができなかった。
「うそ」叔父さんは信じられないって。
「私は套路を沢山知らないですが、これは太極拳です。」

「武徳」ってよく聞くけど、具体的にはなんだろ?
「武術三規」ってなんだろ?
「功夫」って押されて動かなければ、実践的な力があれば功夫がある、っていうの?

「教えられる教えられない人」
私より20歳年上の王師弟は練習場に来てもう1年になりました。 王師弟の体はとても整っていて、よく練習します。
そして、先生にたいしてもとても尊敬します。
いつも丁寧に挨拶するし、先生が帰るときにも謹んで先生の後姿を送ります。
でも、拝師のこと言われなくて、教えてもなかなかできないみたい。
王師弟は先生から何も習えなくて、悔しくて練習場から外れました。
私はちょっと不思議でした。
ある日先生に「どうして王師弟に教えてあげないのですか」と聞きました。
「教えられる人と教えられない人がいるから」と言いました。
ますます分かりません。
「武術はお金を払って習うものではないよ!お金を払わない人に教える、
お金を払う人に教えないこともあるよ」といいました。
「お?!」半分もわかりませんでした。
「王さんのことですが。彼は、武術三規の第1規の武徳が守れないから、教えられない。
いつも親切で挨拶ができても、それは表面的な顔でしたよ」と。
先生はある日街へ行ったとき、注意しないで彼にぶつかった老人に乱暴をしました。
これを、先生は偶然に見てしまいました。
だから、先生はあの時から彼に教えないことを決めたそうです。

なんだか‘義侠’の匂いがする話しですよね。
それに武術3規の第2規と第3規ってなんなんだろ?
狼藉乱暴をはたらく者は「武徳」がない・・・大声で話す者にも「武徳」がない・・・(?)
それに「武徳」=「武術3規」を守るというのでもないのかなぁ?
武徳は社会常識のようなものでもあり、師弟関係においてのマナーだったりもしているようだし・・・
マナー、って一口に言っても分からないわよね。
まずは尊敬がなければ始まらないわけで。でもそれは外見だけの礼ではいけない。
・・・難しいです。
例えば、先生には口答えしないとか?言葉遣いに気をつけるとか?質問は?しちゃいけないの?
・・・ふむむ・・・なんかスッキリしないわぁ。

とても恥ずかしい話しであるが、私は以前来日している中国人の先生に「武徳ないねっ!」って
言われてしまったことがある。
気持ちよくアドバイスしていたところに、弱音を吐いたのがいけなかった。
練習中のことではなく、先生に帰りがけの挨拶で叱られてしまった。
先生に何言われようが「ありがとうございますっ!」って聞いてなきゃいけなかったのだ。
私の甘えが招いた失態である。
以来、「武徳」と聞くと、何をもってして「武徳」なのか?気になって仕方ない。

「拝師」という言葉もよく聞く。
老師の本当の弟子になることらしいが、これができないと奥伝は授けてもらえないとか・・・
それはどんな儀式なんだろ??
「武徳ない」私には無縁なことでしょうか・・・(涙)

(つづく)



8月
8月になってすぐ「孫式剣」を始めた。久しぶりに未知なる套路への挑戦である。
「いいもんだ・・・」
私の教則本と動きは孫剣雲女史と孫永田氏のものである。
実は数年前、孫剣雲女史の高齢の動きに魅力を感じず一度は手放したVCDであった。
しかし今回、孫永田氏のものと見比べてみると、剣雲女史の解説の緻密さ、動きの正確さは
「お見事!」
と言わざるをえないものであった。
私は「孫式剣」を剣雲女史、永田氏、どちらも平行比較しながら学習を進めている。
理に叶ってるどちらか一方を取り上げるということで。
しかし、それは全套路、剣雲女史に軍配があがってるようなものである。
彼女の解説は実に勉強になる。伝統拳としての理論が全編通して息づいているのが感じられる。
それは最初から始まっていた。例えば、剣の刃の向きで名称が変わる。
「少陽、太陽、少陰、太陰・・・中陰中陽」
これぞ八卦双魚。太極の理論の真髄。
剣指の出し方だってそうだ。半端なスキをつくらないように攻防一体の動きを成している。
「形だけじゃないのよ♪」
の実践だ。
「孫式剣」は形意剣と八卦剣とか合わさったような套路であり、いかに孫式マスターに
形意拳と八卦拳が不可欠か、を物語っている。孫禄堂の原点が垣間見れる套路なのだ。
完成までまだまだ先は長い。ひとつひとつ正確に丁寧に覚えていきたい。



一方、教室の方は、ひとり増。ふたり減。新たに加わった人は無料講習会に来た男性。
24式経験者なので、上のクラスに入ってもらった。



先月に続いて、ある女性武術家のブログからまたいくつか紹介しよう。
今回は「教室」とは?「先生」とは?について考えてみました。

「太極拳教室」
**で太極拳教室を開催するのは主人がとても反対しました。
彼の反対の理由は
1.太極拳教室をたくさん持てば、指導ばかりで、自分の練習ができなくなります。
2.**は遠くて、途中時間がかかって、時間が無駄です。
3.カルチャセンターとか、スポーツジムなどでは上手になってる人がいないし、先生に対して、「先生」じゃない。
4.休みを取りにくい、講習会に行きにくい。など。

ええ、ええ。私もご主人の意見に賛成です。
以前にも書いたように、自分の練習と教えることはイコールではありません。
ここでは時間的なことをおっしゃっているのかもしれませんが、私の場合それだけじゃなくて
「減って」いくものでして・・・
言葉にして教えることのテクニックは身についても、自分の身にはつかないというか。
教えてみて初めて、言葉にすることの難しさに直面してる私ですが、
結局は自分がどのように動いているか手の内を明かさなければならないわけでして。
中には、明かす技術がないとか、技術があっても明かさずにいる先生もいるのかもしれないけど、
私は正直に自分がどのような意識で動いているのかを言葉にしています。
ですから「減って」いくのでして・・・

「3年前の教室見学」
3年前、太極拳教室を見学するのが許可されなかったです。3回も断られて、とても苦しかったし。
帰る途中で泣きそうな私を見ると、通訳者は「先生は断る理由がありますよ。
ずっと誰とも交流したことがないみたいだし、自信がないから見せないでしょう。
先生が断る理由は自分の生徒を守るためじゃないですか?」って言いました。
私はもっと不思議です。自信がないと、習わないといけないじゃない。もっと交流しないと上達できないでしょう?
「日本流の太極拳は中国人の武術六段に見せれないじゃないですか」通訳者の友達の一言で、
私はすぐ分かりました。日本流の太極拳か!だめです。太極拳は文化、精神です。
これから、ここで、日本に伝えたいです。いつか太極拳教室を作るのを決心しました。  

自分の技術を生徒さんたちに出し惜しみするする先生のことは耳にします。
私は自分の持っているものを総動員して教えていますが、明かさない先生もいるのだそうです。
「なぜ?」と思っていたら、その先生には先生なりの理由がちゃんとあったのです。
それは・・・
生徒さんに越えられないようにするためだそうでして。
先生はいつまでも先生然としていたいのですね。
自分より生徒が上手になってもらっては困る。先生としての面目が保てなくなってしまうから。
他の生徒さんに軽んじられてしまうとか、先生より上手な生徒さんにお株を奪われてしまう・・・
そういったことへの危機感。
恐怖心からくる保身。
生徒さんの前で自分が一番、を演じたいのは分からないではないけど、
だからって、ブログのように教室を鎖国封鎖する考えはやはり行き過ぎてる気がする。

「複雑な気持ち」
太極拳は「練者千万、成者一二」と言う諺があります。
千万太極拳の練習人中で、最後できる人は多分一人、二人だけです。
先生と弟子の比率は1対1は一番いいと思います。昔の先生は弟子さんは1人しかない(成功した弟子)。
でも、現在、一人先生の弟子、学生など何千人でも、珍しくないです。
太極拳教室に対して、私が欲しい人数が10人くらいです。多いとちゃんと指導できません。
もし経営者が見たら見たら怒るかもしれないですがから、仕方がありません。
そして、今日は3人見学者が同時に来ました。3年ぶりに会っても、すぐ分かりました。
3人は3年前のあの太極拳教室のメンバーです。中の一人は太極拳教室の見学するのを断った班長です。
教室が終わると、彼らは「この1時間半とても勉強になりました。
長いあいだ太極拳をやってきましたが、今日はとても感動しました」って言いました。
そして、この3人は、もうあの教室を辞めたそうです。
あの班長さんは「辞めて、今自分で太極拳教室を2ヵ所作りました。
でも、なかなかできなくて、先生に習いたいです」って言いました。もちろん、私はかまいません。とても楽しいです。
後で事務所の方から聞いて、彼女はすぐ入会したそうです。
でも、帰る電車で、気持ちはとても複雑になりました。
3年の夢が叶いました。ここで太極拳を見せる事、正しい太極拳、文化を伝える事です。
とても嬉しいです。とても嬉しいはずです。
でも、太極拳教室を2つ持ってる話を聞いて、どんな気持ちかしら。
もちろん、中国の太極拳を伝えていただき、とてもうれしいです。でも、できてない状態でどのように伝えるの?
彼女だけじゃなくて、今、たくさんの教室の先生は、私の教室のメンバーの先生もできてない太極拳を教えれば、
学生達は誰もできないじゃない。そして、間違いのものが広まるだけです。
自分の体、生徒の体を壊すばかりですし、100年後、200年後太極拳がどんな状態になるのか想像できません。
1956年24式太極拳を作ってから、50年の今日は、初めて「太極拳体操」と言われるのを聞きました。
もし、また50年経つと、多分「太極拳舞踊」もできるかも。
「先生は責任がありますよ、学生の責任者、太極拳事業の責任者、歴史の責任者です」
今の「先生」は簡単になれる。
これは、中国の悲しい?日本の悲しい?先生の悲しい?太極拳の悲しい?歴史の悲しい?
今の私は、とても悲しくて泣きました。

これも日本の太極拳教室ではありふれた状況だ。
教室では先生を演じ、一方では生徒として中国人の先生に習う・・・
その習った成果を生徒さんに教室で還元するかと思えばそうではない。
その技術は独り占め、悪く言えば自分の体面を保つために中国人の先生に習ってる・・・
総てではないにしろ、私が聞いたのはそんな感じ。
ところで、もし私の生徒さんで「選手になりたい」「勝ちたい」と言う人がいれば、
私は他の教室を紹介しようと考えている。
なぜなら、私は競技に勝てるような技量は持ち合わせていないから。
はっきり言えば、勝てるノウハウなど知らないから。
だけどねー、どんな先生に習おうと、最後は自分、てことでして。

「培訓」の訓
中国では「培訓」の漢字をよく見ますが、日本では通じません。
培は「培育」の意味です。訓は「訓練」の意味です。そして、この2つ単語の4文字はそれぞれ違う意味があります。
培:培う
育:育む
訓:訓える
練:練習
訓練は 特長と技能を計画的に段階的に長い時間かけて稽古。
訓:訓える
練:練習
訓について、私はもう一つ理解があります。
「諭す」と「叱る」です。中国語の漢字は「教訓」「訓斥」です。
「教訓」は1.教える・教訓する。
2.訓戒、教え諭す。
「訓斥」訓戒する・譴責する。
だから、訓練の意味と全然違います。これは、日本ではなかなかできないことです。
大勢の人は「健康」のために太極拳を始めるそうです。だから、太極拳の先生でも、健康の指導師になります。
スポーツジムの太極拳の時間で入った方は太極拳の先生でも、地位はお客様より下です。
そんな人々は訓斥か、訓戒か、譴責ができると思いますか?
だから、あの時に説明してなかったし、本当の武術太極拳の文化は日本で伝えることはできないということです。
だから、武術太極拳は伝統文化として発展したほうがいい?産業文化として発展したほうがいい?
この問題を最近ずっと考えてますますが、わからなくて困っています。

動機として「健康」のために太極拳を始めるのは、もっとも自然なことだと思います。
でも中国人からしたら「健康のためだもの」と、スポーツのお遊び感覚で週に一度通ってくる生徒さんに
疑問を持つのも分からないでもない。
中国人からしたら先生の言うことは絶対で、一度教わったことを「忘れたー」なんてとんでもないこと。
即破門!てことに・・・
それだけ太極拳は特別なことなのかもしれません。
特別というより「伝統」が残っているからだと思います。
中国で太極拳は師弟関係の中で習うもの、というのが通念。
でもカルチャーセンターでは師弟というより、インストラクター感覚なのかも。
先生は尊敬し敬う対象だけど(だからこそ中国では先生選びに吟味する)、
インストラクターはチームリーダーくらいの存在なのかな?
これを読んで初めて「私なんか、生徒さんたちからどんな目で見られてるんだろ?」って考えちゃった。
でも「生徒さんがどう思ってるか」より、「自分が向上していくこと」のほうが断然優先だものね。
その点で私に恐怖心はないなぁ・・・

「チャングム誓い」からの感想
昨日、いつもように23:10韓国ドラマ「チャングム誓い」を見ました。中でとても感動した話がありました。
1.一人子供と料理人の会話:
「料理の方法を習えばいいのに、どうして材料の味をおぼえないといけないの?」
「料理を習うのは後でいい、最初は味をみておぼえて、各食材の特性、庖丁の持ち方、切り方などの
基本からやらないといけない」
では、私は「套路を習うのは後でいい、最初は圧足、足蹴り、歩き、基本功などのような基本から
やらないといけません」って言っても理解してくれるの?
2.チャングムと師匠の話
「こんなたくさんの本、全部覚えないといけないのですか?」
「いやなら、やめて」
「いいえ、ただ、わからないところがあったら教えていただけませんか?」
「面倒な生徒はいやです。すべて自分で解決しないといけない」
って、聞いたら、感動しました。これは本当の師匠です。
うちの学生達は「先生、知りません」「先生、忘れました」「先生、覚えてない」・・・・甘やかして悪い癖をつけてる。
(依頼心になってる。)だから、上手になれません。
今、きちんと分かりました。「上手な生徒は教えてできるものではなくて、上手な生徒は自分で練習してできるもの」
どうして、同じように教えても皆のレベルが違うの?練習量、思想の違いから?
私は一生懸命教えたらいいと思ってたんですが、今考えると、全然違います。
もし皆は「先生、知りません」「忘れた」「覚えてない」と言ったら、
私は「どうして教えたものを知らないの?私の指導価値は?全然尊敬してないじゃない?
ご自分の時間と汗も無駄になる」
「忘れたの?覚えてないの?思い出さないなら来ないで」と私らしく厳しい返事したらどうなりますか?
結果は2つと思います。
1つは、学生は私より強くなれる。(「チャングム誓い」最後まで見てないですが、
最後、チャングムは師匠より強くなるのは間違ってない)
2つは、学生はどんどんやめていきます。
先生より強くなれる学生は100人中に1人くらいの比率といわれていますが、私の学生はたった12人しかいない、
そして学生と生徒は違って、生徒は一人もいないです。だから、そんな厳しい言葉は出せません。
だから、残念ですが、誰も先生より強くなれない。これは先生として苦しいことです。
太極拳世界チャンピオンとか、武術六段とかこれは太極拳しない人に見せるものです。
「いい先生は自分はレベルどのくらい高いじゃなく、自分より強くなる生徒を育てないといけない」
これは先生の使命と責任と価値です。

私は生徒さんに套路を教えている。
そりゃ私だって套路より基本功が重要なのは分かっている。
だから套路の順番ではなく、套路の中で基本を身につけて欲しいと考えているのだ。
太極拳を始めて半年にも満たない生徒さんたちに「套路は重要ではない」と話したところで何になろう?
その言葉の真の意味を誰が理解できよう?
先日も、動作を覚えることで一生懸命の生徒さんに
「忘れてもいいのですよ。ここに来たときに思い出して」というような事を話したら「???」という顔をされてしまった。
だって、間違った動作を復習されて、それが癖にでもなったらそれこそ大変だ。
そういう意味で、「ここに来た時だけ」と話したのでした。でもそれは伝わらなかったのでしょう。
忘れてもいい、覚えなくていい。
現段階では私はそう思ってる。忘れたなら何度でも私が繰り返し教えます。
生徒さん達は何も考えなくていいですよ。
今は体に少しずつ滲みこんでいくように馴染んでくれればと思っている。
そりゃ、頭で考えることも大事です。頭の中で動作を噛み砕く作業は必要です。
でも、そのことに気がつくのはまだ先のことだと思う。
いや、その人それぞれの覚え方があるのだから一概には言えない。
例えば私のように初めから頭で覚えるタイプと、体だけで覚えられるタイプの人とあるように・・・

使命と責任と価値・・・?
責任はバリバリ感じてるが、使命は感じていない、価値は・・・どうだろ?
使命と言えば、私の知ってる指導員に「太極拳の星から来ました♪」と言ってる人がいる。
ゆうこりんの「コリン星から来ました♪」と同じノリだ。
太極拳の星から来たと言うその女性は、確かに太極拳が好きで好きで、練習もよくしている。
だから彼女は太極拳をこの星に広めるためにやってきた、!という使命感に満ちている。
太極拳を人に教えるということこそが自分の生まれた意義、と信じて疑ってないかのようだ。
ある意味、羨ましくもあり、尊敬もするが、私にはとてもできないこと。
第一、私は太極拳の星から来た者でもなけりゃ、人に教えることに使命などと大それたことは考えたこともない。
価値にいたっては「・・・どうだろ?」
それより自分の為の練習にこそ力を注ぎたいタイプなのだ。
人目につかない所で、私はひとり静かに練習したい人なのだ。
あ!
・・・これって指導者失格ですね?
・・・やっぱ教室開いたのは失敗だった?
てか、教室開く資格などなかったのか?

(つづく)



9月
先月まで同様、ある女性武術家のブログから今月もいくつか紹介していきたい。
今回は「健康と太極拳の関係」について考えてみました。

教えること「ある団体交流した感想」
太極拳の学と練之「得意忘形」
太極拳を習うのと練習は全然別な事だと思います。
太極拳は中国のものですが、たくさんの中国人や、大先生でも理解してなくて、とても残念です。
たくさんの教材用の本で「足が45℃、手は胸から20センチ、手は東南方角度」など、太極拳は規格のものではない。
たくさんの初心者は本を参考して、物差しで計る。指導員も大勢の先生のビデオを参考して
「あ!これ先生の動作が間違って、手は**先生の高さがあった方がいい」・・・
自分はとても一流の規格の太極拳をやってるのだと思うかもしれません。
残念ですが、これは太極拳ではありません。いつか「得意忘形」したら、太極拳です。

健康太極拳?
去年、とある大会である人が。「私が太極拳を学ぶのは健康のためだ」と言っていた。
私はあなたの方法は間違っていると言った。
もし武術の技撃を考えないでおこなうと、その動きや力から考えてみれば、
あなたには探究心、向上心がないことがわかる。
その時、ある人は、私達は鍛錬のために練習するのだと言った。
もし太極拳の動作の規律や規格がなくても、太極拳の技撃から練習を始めて、技撃を練習する中で、
あなたは健康を得ることが可能だ。
しかし、健康という物の中からは技撃がうまれたり、それを得ることはありえない。
私達の祖先は幾千年かけて太極拳という文化を創造した!
私は最近米国など周辺の国々をまわってきた。太極拳は本当に私達中国人の誇りだ!
3年前に外国人との談話で、私は「太極拳は我が国の五大発明だ」と言った。
この発明は中国人に誇りを感じさせる。
あなたが中国人で、あなたが太極拳を打つことができれば、それが正しいかは関係なく、多くの人、
あなた達は無条件で「OK」というだろう。
これは我々の祖先が培った中国の本物の太極拳の七光りである。
どうしてかというと、これは私達の東方文化独特の螺旋、纏糸運動式であり、全世界のスポーツで
現在これに匹敵するものはない。
私は大胆に広言をはいても恥じないで言うが、:このような運動は太極拳より前に例がなく、
またこれから後にもないだろう。
以後、どんな運動であっても太極拳に比べて優れているということはありえないとおもう。
私達がここに集まり、たゆまず追及しなければならないものがこんなにも多く、こんなにも美しい太極拳、
あなた達は太極拳の世界にやって来て、太極拳の規則、法則にしたがって、
また太極拳の運動の規律にしたがって練習をすればよい。
あなたが太極拳の技術を掌握すれば、私達の太極拳は一層光彩を放つだろう。
しかし少し考えてみてほしい。もし100年後に、世の中の太極拳がすべて健康目的で、技撃がないとすると。
私はその時にこそ本当に太極体操とか太極ダンスばかりが出てくるとおもう。
あなたがただ健康を基礎の上に太極拳を考えるなら、あなたの太極拳の第1の核心は健康ということになり、
健康の原則に合いさえすれば、あなたは太極拳に背いていないということになる。
しかし、東方のこのような独特の纏糸運動はゆっくりと全く違うものに変わっていってしまうだろう。
変わってしまった後は太極拳の副産品(太極体操、太極扇、太極球)が多くなっていくだろう。

太極拳とは何か?
私達の祖先は太極拳を創造した当時、健康や養生のことは考えていなかった。
どんな哲理も、医学も、何も思いついていなかった。当時の目的は人を打つためであり、自衛のためだった。
しかし、現在の太極拳はどうか?あなたが打つのを私に見せてみなさい!あなたの自衛を私に見せてみなさい!
すべて駄目だ!
何を健康といっているのか?
原因は現在の太極拳がすでにだんだんと太極拳の軌道を離れているためだ。
最近、湖南衛星テレビで「散打王」という番組がやっていた!彼らは私達の太極拳を軽視している。
彼らは1秒で6回、拳を打つことが可能だ。太極大師!あなたが六回打つのを私に見せてください!
あなたは三回打てますか?二回打てますか?どうですか?
駄目だ!
散打の人は決して私達太極拳人の面子を保たせることを考えてくれない、根本から私達の太極拳を見くびっている。
彼はあなたの太極拳は殴る技術に欠けていると言う。どうして殴る技術が足りないのか?
彼は言う:あなた達の太極拳は打つことができなくて、使うことができない。
しかし、私達太極拳を練習する人はとても誇らしく思っている!私達の太極拳は高尚な運動で、四両撥千斤!
後発先制!弱者が強者を制する!
私達の大先輩の楊露禅は楊無敵と呼ばれた!陳発科は北京にて数十年の間だれも相手にならなかった!
孫禄堂は日本人を打ち負かした!等等
しかし、あれは先輩のことだ!私達ではない。先輩の太極拳は技撃を練習した。そして技撃の中から健康を得た。
それでは、あなたはどうなのか?
あなたは「私の先生は誰誰で、とてもすごい!」と言う。それはあなたではない!
あなたの先生とあなたとは等しくない!毛沢東の息子は毛沢東と等しくないのとおなじだ!
あなたはあなたであり、駄目なものは駄目だ。現実に向き合わなければならない。
そして現在私達の太極拳は技法の上に問題がある。あなたの方法は間違いで、あなたの位置付けも間違いだ。
だから、即ちあなたが幾十年練習しても太極拳の技量は向上しない原因となっているのだ。
ある人は:張先生あなたはさっき打つことばかり言って、健身については言及していない。と言った。
実は既に私はあなた方に教えている。
「打つこと!技撃として使うことができること!
これこそが最もよい健身である!」
これが太極拳の真の意味なのだ!

太極拳とは「得意忘形」し‘技撃’であるという。私も正にそれであると思う。毛頭異論はない。
だが、「得意忘形」し‘技撃’であるためには、それなりの訓練が必要だとも思う。
そしてその訓練では「足が45度、手は胸から20センチ、手は東南方角度」といったような
正確さを養うことも時に必要なのではないかと思うのだ。
正確さを欠いた訓練で、足の運びもママならない人が打ったところで敵に効くだろうか?
「得意忘形」するのは最終目標であって、初心者に‘技撃’を指導するには、まずは形からではないのか?
「太極拳ダンス」といっているのは、それこそ正確さを欠いた動きであるからではないのか?
例えば手の位置、相手のどこを狙ってる手?
視線であれば相手のどこを見る?どのタイミングで視線を移す?
こういったことが正確にできて初めて素早い‘技撃’無意識に打つことが可能になるのではないの?
「得意忘形」できるのではないの?
何事も始めは形、私はそう感じている・・・
ここで言われていた技撃というのは、‘技撃’を意識して動いた套路という意味なのかもしれないが。
・・・それから、健康も‘技撃’からだろうか?
正確に歩けもしない人がいくら‘技撃’だけをしたところで健康になれるだろうか?
むやみに体もできていない。筋力も脚力もない人が‘技撃’だけをしてもムチャというものだ。
やはり健康を保って‘技撃’をするには体作りが重要な位置を占めてくる。
だからといって、そのためにスクワットやストレッチをするのでは本末転倒だ!
極端すぎる言い方かもしれないが、
ストレッチはほどほどに。太極拳にとってそれほど重要ではないと考えている!
一にも二にも体作りのための套路であり、健康のための套路であり、最終的には‘技撃’のための套路であり、
套路によっては太極拳の訓練が成り立つと考えている。
日本の太極拳教室では準備体操にストレッチをみっちり行う。
何のため?
そりゃ、いきなり激しい太極拳は無理だ。だから太極拳の準備体操は套路でいいじゃないか?!
軽めに24式かなんかをすればいいじゃないか?!
‘技撃’ならなおさらのこと、敵に襲われてるのにストレッチしてる場合じゃないでしょうが・・・
私は昔っから、太極拳練習前のストレッチに疑問を持っていたのだ。
あのストレッチに何の意味があるというのだ?!
だったら基本功がいいじゃないか!ツライツライ基本功をしようよ!
太極拳は技撃だ。
確かにそれは正論です。
だけど、その訓練のために太極拳の套路は必要だろう。少なくとも私は必要としている。
太極拳の流れるようなフォルム、呼吸、集中力を身につけて初めて強くもなれる、と。
話は変わって、最近、太極扇がブームのようだ。
あのフォルムや套路には技撃の意味がない。意味が見出せない。
ということは、あれこそはダンス、踊りなのではないのか?
そもそも、音楽流して見せる・・・太極拳としてどうなんだ?



そういえば、私が住む小さな町に、公民館を拠点とし太極拳をしている団体がある。
始めはそれこそ24式や48式や32剣をしていたようだが、
最近では「気功太極拳」という怪しいネーミングの太極拳をしている。
明らかに太極拳ではない、気功だ。と言いたいところだが気功でもない・・・。
自分たちだけで「これは太極拳よ」「気功よ」と楽しんでいるだけなら私も気にしないが
その太極拳でも気功でもない体操を「太極拳」だといって普及してるから心穏やかでいられない。
しかも、大人気だ。イカガワシイ太極拳体操の方が大繁盛ときてる。
片や、手の内をさらけ出して太極拳を教えてる私の教室は、知名度ゼ〜ロ〜。



話しは転がって。
先日、公民館主催の一回限りの「太極拳講座」の講師を依頼され行ってきた。
その会は高齢者(70歳以上)を対象とし、公民館が募集して集まった人たちである。
毎月一度、月代わりで活動をしているとのこと。ちなみに先月は携帯電話のかけ方を教わったり・・・
そして今月は私の太極拳講座で、来月は映画鑑賞だそうである。
講座の前に、公民館館長に挨拶をしに行ったら、そのぞんざいな態度に呆れた。
「定期的な講座にする気はない」とハッキリ突き離す大人気ない態度
名刺代わりに差し出した教室のチラシを受け取っても見もせず、
自分の名刺を投げつけるように押し付ける常識ない態度



さて、その教室であるが。毎月減少の一途をたどっている我教室。新しい入門者はといえば・・・
問い合わせの電話やメールは時々来るのだが、姿をいっこうに現さない。

教室では太極拳経験者のGさんが相変わらず、生徒さんに勝手に教えてるし。
こないだなんか、私にまで説教する気でいた。
その説教の内容というのが、準備体操のストレッチに関することで、
「やっぱり、柔軟性がないと繊細な動きができないですよね。
だから先生、こんなストレッチをした方がいいですよ」みたいな。
私はもともとストレッチに疑問を持ってるし、だから必要以上の準備体操はしない。
スジをのばすことだけに重点を置いている。

9月は24式をひと通り説明を終えて修了の月とした。最終週に表演会をする予定。
だけど、その日練習に来たのが、皆勤賞のエミさんと、Gさんのふたりだけ。
ふたりだけじゃ寂しいので、私も入って3人で表演会。ジャンケンで順番を決める。
トップがエミさん、私、トリがGさん。
ひとりひとりをじっくり見る機会はこれまであまりなかったので、エミさんの動きを久々に見た。
格段に上達している。
重心移動は完璧だし、始めた頃は後ろ足が伸びなかった弓歩も、しっかり後ろ足が伸びてのびのびとしてきたし・・・
いやあ、私が感無量だった。
表演が終わって、コメントを言おうとしたら、横から真っ先にGさんが口を挟んできた。



10月
開講当初からの生徒だったエミさんが初めて休んだ。
24式が修了したのでこのまま姿を現さないのでは、と思うと不安になった。
私はエミさんだけはこれまで皆勤賞だったし、今後も続けられるのではないかと思っていただけに
私の指導に不満があったのだろうか、とも・・・
(エミさんはその日、たまたま体調がすぐれずお休みしただけだった)
そんなわけで、10月最初の練習日はGさんだけだった。

生徒さんも4月から一人減り、二人減り・・・10月になってついにエミさんとGさんのふたりだけ。
エミさんが休んだらGさんと私だけのマンツーマンになってしまう。
「(こりゃイカン!)」
と危機感が高まる中、5月以来、恐怖の(かなり疲れる)無料講習会を催すことに。
タイミングよく収穫祭(「tuzi now」10月参照)もある。
「(近所の人たちにもイッチョ声がけして、と)」
あとは5月同様、地方版の新聞に載せてもらった。
当日は、新聞広告を見て連絡くれた人が4人。収穫祭からいらした方が2人。計6人の講習となった。
5月に比べ今回は賑やかな体験教室になった。
これも収穫祭に出てみたりといった地道な成果と嬉しく思った次第。
「(はて、翌週は何人始められるだろう?)」
まあ、半数といったところだろうか、と踏んでいたら4人も参加してくれることに。
通えない2人はご丁寧に電話で連絡を下さったほどだ。
しかも!
収穫祭を見て体験に来てくれた近くに住むフクさんが、お友だちを3人も引き連れてやってきた!
最数的に11月は新入クラスが6名、今まで来ている人たちが4名。一気に増えて戸惑うほど。
もう十分です。
私ひとりで見るには10名がてとこでしょう?
これまで2,3人で細々と贅沢に運動場使って、個人指導にちかい状態でやってきたのがウソのような賑わいです。
2,3人して「さびしいですよね・・・」とか「宣伝してくださいよ」なんて言われてたのが、
こうなってみると遠い昔のように感じます。
人数が増えたのは嬉しいことは嬉しいのですが、88式を始めたエミさんたちクラスに、
新入クラスに時間がかかりすぎて手が回らなくなってきたのが心苦しい。
致し方ないことではあるし、今までが恵まれすぎてたってこともあるにはあるのですが、
今後は時間配分が課題になってきます。
24式修了とはいっても、88式で基本をまだまだ練っていきたいと考えているので
エミさんたちのクラスも時間をかけてしっかり見ていきたいし、
私にとって特別な存在である「一期生」を大事にしたい、という個人的な思いもある。
といっても、これから冬になれば、そのエミさんも雪でお休みに入ることになるだろう。
エミさんばかりではなく、雪道をおして通ってくる人が何人残るだろう?
これから開講以来初めての冬を迎える。
冬の間何人通ってこられるか、今の段階ではまったく不透明である・・・
私でさえ天気次第では行けるかどうか危ういのだ・・・



さて、私の自主トレはどうなってるか?
ふむ、これがなかなか・・・はかどりません。
教室が始まる1時間前に行って練習するつもりが、いつもギリギリになってしまって・・・
おまけに風邪をひいてしまって・・・これがまた治りが悪いときて・・・だらだらとひと月も風邪をひきずって・・・
幸い熱はないのですが、洟風邪でイマイチすっきりしない。
手首の痛みもまだあって・・・
お!そういえば痛みはないんだけど、足も変形してきて・・・そんなこんなで孫式剣が足踏み状態。
あと2型くらいで収勢なんですけどね、集中する時間がとれてないというか。
年内にせめて套路だけは覚えてしまわないことには。
だって、孫式自選套路も作らにゃ。そして練習せにゃ。(あわわ・・・)
教室にばかり一生懸命になってる場合じゃないのかも。
おまけに、香港から競技大会の出場要請の電話がきたりで、頭まわりませんて・・・。
「(中国語忘れてるし!)」
「(英語はさらにできないし!)」
メールアドレスをやっと教えて返信してもらったのを、間違って削除してしまって、またまた電話くるし!
それをまた電話でいきさつ説明すんの大変で・・・(疲)
・・・って、こっちの締め切りも近いんだけど、ぜんぜん動けずにいて。
‘やり過ごせること’と、‘そうじゃないこと’交錯してる毎日です(忙)



11月
交錯してる毎日をおくる私ですが、嬉しいこともありました。
収穫祭(「tuzi now」10月参照)での表演が好評との声がチラホラ・・・「(ホッ)」としてます。
来年は生徒さんと一緒に舞台に上がりたいものです。「上がりたい」といってある漢詩を思いだしました・・・

王之挽の詩の一節
「日窮千里目、更上一層楼」
千里の目を窮めんと欲して更に上る一層の楼

千里の遠方を望もうとして、もう一層上の階まで登ってみる。
人間死ねまで努力精進が必要。

太極拳はこの「日窮千里目、更上一層楼」のようなものだと私は思っています。
「これでよし」なんてことはありえない。
私自身、満足のいく表演などこれまで一度もない・・・
そりゃ、技術的なことは3年と5年では違って当然だが、その時々での満足というのがないのだ。
この段階での満足・・・いや、これで満足するしかない・・・ということでしかない。
そういった意味で私には完璧ということがないのだ。
「まだまだ・・・」
きっと死ぬまで太極拳が極められない、私は悲しい存在なのでしょう。
太極拳の醍醐味、そういったものも感じられないまま死を迎えるなんて悲しいですよ・・・
「日窮千里目、更上一層楼」はそんな悲しい一面を持った詩と思うわけです。
それだから私には強く響く詩でもあるのです。
中国の漢詩にはこういった意味の漢詩が他にも見られますよね。
志の高さというか、謙虚さというか、人間の不完全さを言い表してる。
一方で、太極拳においては「まだまだ・・・」と思えなくなったら、それでお終いでもありますよね。
それ以上にはなれない。
それはそれで太極拳の極みを志すものとして悲しいことではないですか・・・
どちらにしても太極拳の練習というのは、最終的に太極拳を打ってる個人の内面、感じ方によるわけだから、
孤独で悲しいものです。他人には知りようがない。
ですから、太極拳をしてて楽しいと感じることができるなら、それは幸せなことで幸運なことなんだと私は思います。
そりゃ、私だって希に単純に太極拳を楽しむことがあります。
気持ちよく太極拳を打つことだってあります。
でも、それをひとたび振り返ると「まだまだ・・・」と自己嫌悪に陥るわけでして・・・。



最近「ちりとてちん」にはまってます。
女流落語家を目指す女性の話しですが、最近弟子入りを許され修行が始まったのですが、
お稽古をつけてもらうのに、お月謝はないし、寝泊りしてるのに家賃もない。
「何百年の昔から伝わっているものを口伝していくものでして、お金をいただく道理がおまへん」と
師匠さんのセリフ。・・・ちと耳がイタイ。
(ははぁ・・・)
それで合点がいった!
私の父は大工の棟梁をしていて、我が家にはお弟子さんたちがたくさん住み込んでいた。
そういった内弟子さんは私が高校の時までおりました。
外弟子という通いのお弟子さんも何人かいました。
それは当然、月謝なんかなかった。
食事も寝泊りも、もちろんタダだし、そして仕事を教えていた・・・
修業期間は5年。そりゃ初めから仕事を教えてもらえるわけではなく、雑用の毎日。
その中で先輩や師匠の仕事を盗み見しながら修業するわけだ。
一人前になれるかどうかは本人の心構え次第。どんな世界でも同じだと思う。
修業についていけず脱落するもの、見込みがなく出て行くもの・・・
でも、それが当たり前で、私も不思議とも思わなかったっけ。
(ふむ・・・)
弟子は師匠の仕事を手伝いながら仕事を覚える。
そして、現場から帰れば家事仕事、掃除、薪割り、道具の手入れ・・・
どんなことでも身を惜しまず働く。気を働かせる。‘お努め’である。そんなの当たり前だ。
そう、私はそういうお弟子さんたちを見ながら、そういう師匠と弟子の関係、
お弟子さんたちの先輩後輩を日常に見ながら、その中にどっぷり漬かって育ってきた。
なのに!
「中国ではなぜ謝礼なしで太極拳が習える?」と疑問に思っていたのだ。
なんとしたことか!
中国で太極拳は日本の落語や職人の修業と同じだったのではなかろうか?
今日になってやっと合点がいった。
だから師匠と弟子なのだではないか、と。
‘生徒さんが週に一度、太極拳でいい汗流して楽しい時間を過ごしてくれれば、
私にとってこんなに嬉しいことはないのです’(「自主トレ日記」6月より)
なんて、ぬるいことをもっとも然として恥ずかしげもなく語ってた自分が情けないです(恥)
「おらおらー!なにやってんだよっ。ちっがうだろっ!(怒)コラコラ、そうじゃないよ!
これだけ説明されてもまだわからんかぁ?(怒)」
と言わず、あえて
「大丈夫ですよ。・・・はいはい、そうです。一度で覚えられる人なんていませんよ・・・」
なんて優しく語りかけたりしてる。
結局はカルチャー太極拳教室でしか指導の場が持てない
日本に住む中国人老師だって同じだ。
こちらの生徒さんに対しての見方と、向こうからの見方にギャップが生まれるのもこのせいだ。
それが日本だ。
太極拳に対しての中国人と日本人の認識の差。
私でさえ感じてるのだから、日本で太極拳教えてる中国人の先生ならなおさらのことだ。
中国人が日本で太極拳教えてて感じるギャップがこれで私にも分かった。
だからといって、どうしようもないが・・・
ここは日本なのだ。
アメリカに毒され、日本にも毒され、その中に浸り毒されていることに気がつきもしなかった私。
中国生まれの太極拳をしていく上で精神的にツライものを感じずにはいられない・・・



私、今になって香港の簡さんのことを思うのですが、彼の楊式を動けるのは世界中で私ひとりです。
簡さんのことを、私は師匠と呼んでいますが、武術家でもなければ先生でもありません。
勝手に私が習いたくて師匠と呼んでるだけのこと。
言葉にして「教えてください」とお願いしたのだし「私のでよければ」と返事をいただいて教えてもらった楊式である。
なのに!
毎朝ごはん、時には夕飯をご馳走してくれ、おまけに日帰り旅行にも連れて行ってくれた。
これは今思えば、れっきとした弟子の扱いだったではないか!?
そのことに今日の今日まで気がつかないでいたなんて・・・
なんとも恥ずかしい話しだ。
「師匠さんになんにも恩返ししてない・・・」
こんなことにも気がつかないでいた私が人様に太極拳を教える資格なんてないですよね。
鬼のtuziが聞いて呆れるって話しでっせ。
え?
そんなのは杞憂だって?
私に弟子入り希望する人なんていない、ってね。
それもそうだね・・・
ところで、もしも万が一、弟子ができたとしたら月謝もらってる‘生徒’と‘弟子’の違いってなに?
私は教室の生徒さんたちに全力で自分の持てるものを総てさらけ出して言葉にし、
動きだって全力で動いて見せている。それも何度も何度も・・・
これじゃ、生徒さんと弟子の区別がつけられないじゃん。
生徒さんに総てをさらけ出してる私は愚かだってことなの?過剰サービス?
そこまでして見せないものなの?言わないものなの?
「先生はあらゆる面(それは商売上だったり技術的に生徒に越えられないようにするためだったり)で、
本当に持ってる力を生徒に見せないのが一般的」との意見もある。
これは現実によく聞く話しでもあるし、信憑性が高い意見である。)
でもま、私の性格上黙ってるなんてことは出来そうにないし、見せないで教えるなんてことも、
どだい無理な話しだが。

私は自分の師匠である簡さんに何もしてあげられなかった。
それを生徒さんに返すなんて大それたことは考えていない。お門違いだしね。
うまく言えないけど、今の私は、‘弟子として’師匠に返さなければならないことと、
‘指導する者として’生徒さんにどう向き合っていくか、が複雑に交錯してるのでした。



12月
今年4月から教室を開講したことで人間関係上、いろ〜んな事があった一年でした。
良く言えば充実してたということになるのでしょうか。しかしながら今までになく苦労の多い年でもありました。
たったひとりで手探り状態でゼロから始めた教室です。
苦労しないはずがないのですが、そこのところ私も安易に考えておりまして。
思わぬ障害(特に練習会場の確保)の連続でした。
それでも、なんとか切り抜け、開講してもうすぐ一年になろうとしてます。
そんな教室ですので自分の教室という意識が強く、愛着もひとしおの我教室です。
また、私の中には今後の構想や目標がいくつもあります。
教室で誰でも自由に使える武器や、教室としての表演服の用意・・・
公の協会に加入しての定期的な表演。それが生徒さんの励みになるならの話しですが。
・・・とまあ、こんなことを考えているうち「あっ!」という間に時間が過ぎてしまい、
自分の練習がまるで出来ないまま、正月てな感じです・・・
繰り返しになりますが、人に教えるというのは自分の向上には、なかなか結びつかないものです。
教室だってまだまだ、軌道に乗ったわけではありません。
新たな問題や、思わぬ誹謗中傷を受けることだってあるでしょう。
そんな時、心が煩わされることなく泰然とした態度で臨んでいけたらと思うばかりです。
太極拳も流されることなく、自分の太極拳を迷わず追求していけますよう。
そんなことを願う年の瀬です・・・

来年は今年の延長になりそうな気配ですが、一歩一歩確実なものを生徒さんたちに伝え、
そして私自身も新たに脱皮できる確かなものを吸収していけたらと考えています。
確かなものを誠実に伝え教える。
そして自分もそれができる確かなものを身につけていく、追求していく・・・そんな一年にしたいと思います。
来年も「飛ぶtuzi」どうぞヨロシク!